裕子かあちゃん産地だより

私が嫁いだころは、家族で柿を育てるふつうの農家でした。まわりと違ったのは農協と取り引きをしていなかったことです。その大きなきっかけは、義母が農薬を混ぜていたときにたびたび気分が悪くなったこと。またその頃、新聞で連載された有吉佐和子の『複合汚染』を読んだ義母が、「自分がしんどくなる薬をかけたものを売るのはおかしい」と農薬を減らしてつくったところ、農協の共同選果では見た目の悪さなどのため買いたたかれてしまい、「わかってくれる人に買ってもらいたい」と思ったことから。一方、夫も大学で学ぶなか農協主導の農業に疑問を持っていました。それで卒業後、家族会議を開き、これから一致団結して自分たちの目指す農業をやっていこうと誓ったそうです。けれどそれから数年は村で孤立状態。かなりしんどかったと思いますが、ここで皆の背中を押したのが義母だったそうです。
農協に出せないので自分たちで売るしかない。あるとき、柿をトラックに積み、大阪方面に走ったんです。と、ある住宅地でトラックが止まり、主婦たちがなにかを分けているのに遭遇。興味を持ちそのトラックについていくと、掘立小屋みたいなとこでいきいきと働いている人たちがいて、それが生協の事務所でした。声をかけて、引き取ってもらえる生協を紹介してもらったのが生協さんと取り引きを始めたきっかけでした。
義母は大阪の女学校出の進歩的な人でもあり、昼間は農作業、夜は父と謡や仕舞などを楽しみ、また、お茶やお花、絵にも精通し、私にも折にふれ「百姓だけしててもおもしろくないやろ。習いなさい」と言っていました。この地域は「嫁さんの替えはあるから、働かせよ」といわれており、自分の体験をさせたくないという思いもあったのだと思います。とはいっても嫁姑の問題はなかったわけではなく、「言えへんかったらわからんさかい言います」という人で、傷つくことも多々ありました。でも今思うと、それで気づき成長させてもらったし、「当たり前のことやからしゃあない」と強くもしてもらった。ただ、結婚3〜4年して突然実印と通帳すべてを渡され、「これからはあんたたちで全部しい!」と言われたときはかなわんかった。よう実印渡す勇気があったなって思います。私も義母と同じくらいの年になりましたが、私は息子に渡す勇気はまだないですね(笑)。
05年1月から取り掛かった家の修繕は06年12月始めに終わりましたが、150年以上の家だったので方々修繕が必要で大変でした。義父母を看取り、長女を嫁がせ、今は夫、息子、下の娘との生活。忙しくも義母の教え!?に従い私も、細々ながら地域のコーラスやお茶に親しんでいます。これからは修繕した家を中心に、消費者のみなさんと農業を考える場をつくり、また、農作業を引退した地域の高齢者にも、梅干づくりや郷土料理の指導、大和野菜などの料理素材の栽培などをお願いして、ひきこもらず収入のある活躍をしてもらおうと考えています。いずれ私もそうなるんで(笑)、今から少しずつがんばります。
〈産地紹介〉
人に地球にやさしい農業、持続的発展ができる農業という目的をもつ専業農家とそのセンターです。農薬散布を最低限に抑え、除草剤は一切使わず、肥料は有機質肥料を施肥し、他人まかせにしない栽培計画や出荷体制をとれるよう努力しています。考えや思いを同じくする仲間も増えました。また産直活動という形で消費者と直接交流のできる、お互いに顔の見える関係をつくることにも力を注いでいます。産地のひとつ、五條市西吉野町は梅見で有名な賀名生(あのう)梅林があり観光客で賑います。