――鳥居さんが農業を継いだときの様子をまず話してくれませんか。
「農業は本当はいやで、競輪選手になりたかったんですよ。で、普通高校に行ったんですが、高校の先生に土地があるんなら農業をやれと強く勧められて県立農業大学校(2年制)に入ったんです。百姓をやる気になったのは、ちょっと気恥ずかしいんですが、当時みかんの価格が低迷していて親父が苦しんでいる姿を見てからですね」
「大学校を卒業して20歳の頃、それまでの温州みかんからハウスみかんやキウイフルーツ、1〜2年後にスモモも植えました。切り換え直後でハウスみかんは木にハウスを掛けるだけですから収穫はありましたが、それ以外は収穫も収入もない、食っていくために土方もしましたね。今は、ハウスみかん30アール、キウイフルーツ、梅など合計2ヘクタールの園地がありますが、これは親父が山を開拓して開いてくれた、感謝しています」
――首都圏コープとの産直をふりかってみてどうですか。
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熱海に近い米神地区のみかん畑。毎年、耕作放棄で荒れる園地が増えているともいう。 |
「今、社長をやっている長谷川功さんが3人ほどで当時の江戸川生協やふれあい生協(現東京マイコープ)と産直していたんですが、16年ほど前、長谷川さんと知り合ってから産直を始めました。“東京に配達に行くからつき合えよ”といわれたのがスタートでした。市場しか知らなかったので、最初は生協ってのはなかなかわからなかったですね」
「単協と産直していた当時は生産者も少人数で全量引き取ってもらえました。ところが、首都圏コープの生協が次々と合併して大きくなっていく。けれど農家は同じ品目のもの同士、産地同士が一緒になれるわけじゃない。取り残される産地と伸びる産地、生協合併がかなり産地の盛衰に影響したと思いますね」
「われわれも生協が大きくなるにつれて、これは大変だ、どうする、オレ達もでかくなるしかないと、仲間を増やしました。とはいっても正直、石けん運動や水の環境を守るということでは仲間は増えない。“収入が安定するからやらないか”と、これが入り口ですよね。長谷川社長の言葉を借りれば、生協へ5年出せばわかるって。たしかに5年ほど産直をすると経営が安定する、その中で農薬をもっと減らそうなどと本物の意欲が出るんです」
「小田原の場合、以前からみかんの共選出荷をやっていて各地域にリーダーがいました。知り合いをたどりながら、こうしたリーダーを巻き込めたのが良かったなと思います。各地域のリーダーが力を発揮してくれましたから」
――そんな中で生消協からはかなり刺激を受けました?
「ええ、かなり受けていますよ。首都圏コープに生消協があることが他の生協との大きな差になっていると僕は思います。最初は米沢郷の伊藤幸吉さんのグループなど他の産地の人が雲の上の人のように見えました。例えば無茶々園。愛媛のあの地域では欠かせない存在になっている。愛媛の農協は愛媛みかんのブランドを創ったけれど、無茶々園はその上を行くブランドになった、すごいと思いますね」
「今回の生協の総会では“生消協とはなにか”“産直とは何か”が議論されて持ち越しになりましたが、僕は産直とは生産者が中間コストを省いて直接消費者(生協)に農産物を渡すことと、シンプルに考えています。肉の混入問題もありましたが、産直とは別の問題だと思います」 |